2026.02.27
たま
-162-
本日もあけました!
もう一丁、猫の映画の話をします。今週は、猫ウィークということで。笑
こちらも猫の日特集で観た「ねことじいちゃん」です。動物写真家の岩合光昭さんが初監督を務められた2019年の作品で、「吾輩はタマ、猫である。」からはじまります。
素朴な疑問として、猫と言えば「タマ」なのはなんでなんでしょう?
諸説あって、豪徳寺の「タマ伝説」をはじめ、宝玉のように珍重されていたことに因むとか、丸まっている姿が玉のようとか、玉にじゃれるから~なんて説も。
まあ、「ねこだま」の見地からすると、やはり神秘的で霊的な力を感じさせる「魂」「霊」からきているという説を推したいと思います。これまで特に観たことも気にしたこともなかった猫映画をいくつか観る中で、つくづくそう感じました。もちろん、ほかの生き物でも不思議な力を見せることはありますが、その神秘具合が図抜けている印象が、猫にはありますね。
でも、人間も時として信じられないような神がかった力を発揮することがあります。実際、人間こそ全生物において最も不思議な生き物であるかもしれないですよね。とんでもない進化を遂げ、その創造性は他に類を見ない域に達しているのですから。では、そんな人間がなぜ猫を神秘的でミステリアスだと感じるのか? それは、やはり人間世界における”知的教育”によって、本来の生まれ持った力が弱まっていっているからではないかと思います。発明家である人間は、体系的な教育を開発し、学力という”はかれる物差し”をつくって、比較と競争の原理を使って能力を鍛えてきた。でもその能力とは一部の「脳力」に過ぎず、もっと全体的で根源的な”魂”の力で生きている猫に魅かれるのではないでしょうか。
じゃあ、人間はその力を完全に失ったのかと言えば、必ずしもそうではないでしょう。「脳力」偏重の教育によって歳を重ねるほどに、つまり大人になればなるほど鈍くなり、どんどん埋もれていっているのではないかと思います。こどものうちは、それぞれにとても鋭い力を持ち合わせていたのに、”はかれる力”だけが評価され伸ばすよう強いられ続けた結果、無視された”はかりしれない力”は埋もれていくほかないでしょう。
「玉磨かざれば光なし」の通り、宝石の原石も掘り出したままで磨かなければ光を放たないように、人間も持って生まれた優れた素質を研鑽しなければ輝くことができない。でも「玉=はかれる能力」と矮小化された力が放つ光は、たかが知れていると思うのです。「私には素質なんてなにもない」なんてことはなく、「魂=はかりしれない力」が人それぞれにあるはずです。目に見える力ではない、時に自分自身さえ気づいていないような力、それは心の向かう魂が動く方にきっとあるはずだと思うのです。
「魂磨かざれば光なし」の心持ちで、眠れる子の魂が瞬けるよう、「ねこだま」はこどもたちとともに成長を重ねていきます。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
