2025.11.12

ますます

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本日もあけました!
”多様な
こどもたちのために学校が変わるべきか否か”の続きです。

学校の在り方については、まずもって普通に社会の変化に目を転じれば明らかなはずです。
たとえば、私が前職で身を置いていた広告業界など非常にわかりやすい例かもしれません。
一昔前までは、「マス広告」と言われるテレビ(主に地上波)をはじめとする新聞や雑誌、ラジオのマス4媒体でコミュニケーションを賄えていた。それが、インターネットの登場とともに、「マス=大衆」というターゲティングが徐々にできなくなってきた。単純な性別や年齢、職業といった大雑把な括り方では通用しなくなり(性別の定義さえ変わり、職業も副業時代においては意味合いも変わる)、嗜好性やライフスタイルなどで捉える「族」レベル、さらにはデジタルならではの行動履歴でストーカーさながらに追いかける「個」のレベルにまで、超がつくほどの細分化が進み、マス一辺倒ではアプローチしきれなくなってきたのです。
そして若者に向けたコミュニケーションは、まさに「ねこの目玉」さながらに刻々と変化している状況で、次々にあたらしいメディアが生まれ、これまでとは情報伝達の流れまで変わってきています。マス広告が通用していた時代は、情報優位性のある側が一方的に発信し、受信する側のターゲットに届けていた。それが今では、インターネットの登場により、これまでの情報優位性が崩れ、受信側だった”大衆”の側へと情報バランスの重心が移るようになってきた。一律の発信では投網にかけて届けることができなくなってきただけでなく、昨今では「個」の側がいち早く情報を発信して「個」の間で情報流通するようにさえなり、さらには「個」が情報創出まで行うといった優位性の重心の大移動が起こったのです。そして遂には「個」の情報を必死に追いかけ迎合する「マス広告」という立場逆転に至っているわけです。
まさに学校教育も「マス教育」として重ねてみると、「個」の生徒との関係性はほとんど同じではないでしょうか。大衆教育としてこれまで大きな役割を果たしてきたわけですが、学習内容についての情報優位性が、これまでの発信側の学校(先生・教科書)と受信側の生徒の間で完全に重心が変わり、優位性がなくなったどころか、むしろこどもたちの方が先んじて多くの情報を得ている状態において、いつまでこのほぼ通用しなくなった情報伝達システムでいくつもりなのでしょうか?

テレビをはじめとしたマス(媒体・広告)が従来のまま変わらなければ、明らかにその存在意義を失い、いずれ本当に不要とされてしまうことでしょう。依然として一定の役割を担う大きな存在ではあるものの、それは単純にこれまでアナログ世代として慣れ親しんだ旧来メディアを支えている高齢者の数が依然として全人口の多くを占めているお陰によって猶予があるだけで、その拠り所を喪失する -今の人口動態では近い将来に必ず消滅する- 時のために、もう変わっていかなければならないはずです。
教育においても同様に、辛うじて親世代以上にはまだ一定通用する古い社会通念のもと、思考停止のように有無を言わさず「学校には行くものだ」という説明では到底こどもたちには届かず、もう乗り切れない時代です。情報伝達経路やその優位性の重心が入れ替わってしまった状況において、学校の存在はどうあるべきか。ますます「個」の時代が進む今こそ、真っ直ぐにこどもたちと向き合い、ともにあたらしいまなびを実現していく必要があると思います。

ご一読いただきまして、ありがとうございました

それではみなさま、よいあけがたを!