2025.07.22

寝る子は

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今日もあけました!

ねこのイメージは、ほかにも「縦横無尽」が挙げられます。犬は、地平を速く、遠くまで駆け巡る素晴らしい身体能力を持ち合わせていますが、多少木を登れる犬がいても、基本的にあまり縦に高く上がることはできないですよね。でも、ねこは平気で高い屋根に上ってくつろいでいたり、平面においても、ひとりで奥まった細い路地裏に密かに分け入っていったり、高低含めた境目をいとも簡単に自ら渡り歩いていく軽快さが際立ちます。また、犬の場合、内と外がはっきりしていて、一歩家の外に出たら、リードにつながれ、思い通りに自由に散策することができない上、そもそも出かけること自体、ふらっと自分で思うがままにということが叶わない。それに比べて、ひとりで勝手気ままにふらふら街歩きしに家から出ていったり、ひとの敷地もなんなくすり抜けていったり、まさに境を超えていく自由度の高さも含め、縦横無尽と言うに相応しい。この内と外の境界線がなく、いとも簡単に行き来できる生き物は、そうそういない、ねこならではといって間違いないと感じます。

これまでの時代は、決められた枠の中で、決められた通りに、期待に応える成果を生み出し続けることが優秀とされてきた。でも、これからの時代、今までのような規定路線というものは存在しない、枠組みのない未知に満ちた状況で、だれかに決めてもらうこともできない道なき道を進まなければならないときに必要なのは、自分自身で考えて、決断して、時に自身やひとの想像を超える成果を創り出す、ねこ的「縦横無尽」な生きるチカラなのではないかと感じます。
そういう意味で「爪削ぎ」をされてきた犬的な教育ではとても太刀打ちできない、非常に厳しい環境と言えるでしょう。だからこそ、自分の好きや強み、もっと言えば、やれるかどうかよりもやりたいことをやりたいだけやってみる、そんな「爪研ぎ」のまなびそだちが必要だと思うのです。

と、ここで、なぜ『”猫”ではなく”ねこ”と記し』たかの理由について触れておきます。「ねこ」の語源は「寝る子」という説があるらしいのですが、確かに丸まって寝ている姿をよく見かけることから、とても説得力を感じます。そして、人間のこどもたちも、ある意味同じ「寝る子」ではないかと思います。幼いうちはよく寝るというそのままの意味だけでなく、まだ外からは全然見えてこない様々な力を秘めているからです。こどもはその成長過程において、たくさんの才能が眠っている状態という点で、「寝る子」なわけです。実際、生まれたばかりの赤ちゃんを目の前にして、おとなはよく「可能性の塊」として純粋にその秘めたチカラを強く感じ取り、なにひとつ自分ではできない、周りの助けなしには生きていけない赤ちゃんに対して多大な期待と希望を抱きますよね。それにもかかわらず、不思議なことに、こどもが徐々に色々なことができるようになって、成長を重ねて力をつけていくにつれて、今度は一転「あれができない」「これが足りない」と”ない”ことばかりを取り上げて、期待を萎めていくという、不可解な見方をするようになるのです。

才能豊かだけれども、今は未だ「寝る子」の”ねこ”に対して、それを見出せない”大人”の得意の減点法で厳しい評価を下し、強制的な訓練を施し、集団における優秀な「犬」に育て上げようとすれば、それは”ねこ”にとっては辛い苦行でしかないと思えてなりません。

もとから犬である子は居ぬ、だれもが眠れる子の「ねこ」なんだ。

ご一読いただきまして、ありがとうございました

それではみなさま、よいあけがたを!