2025.07.14

土俵

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今日もあけました!

前回、学校教育の例えとして”他律的な犬の訓練”と表現しました。

80年近く経つ義務教育は、それこそ国民全体の学力を上げることが国力の向上につながる時代と大きく重なりながら、連綿と続いてきたのだと思います。いわば平均点を上げる、標準化による底上げが効果的かつ重要だった時代です。確かに驚異的な戦後復興を遂げた日本人の勤勉さは間違いなく賞賛に値し、世界を驚かせた力であったことは疑う余地がないでしょう。逆に言えば、ゼロから否マイナスからのスタートは、非常な困難を伴いながらも”大きな目標としての夢や希望を持てる”伸びしろしかない状況として、右肩上がりのイケイケドンドンで、やればやるだけ目に見えて成果を得られた時代であり、”学力と収入が比例する”と強く実感できる環境だったのだと思います。

ところが、バブルが崩壊し、そこから「失われ続ける年月」がはじまりました。阪神淡路大震災9.11、ITバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、コロナ禍等々、日本国内のみならず、世界規模でも未曾有の危機に度々直面しました。その間も、シリコンバレーのIT業界では「ドッグイヤー」と言われたほど、急速な技術革新が巻き起こる状況下、日本はあらたな文明開化の波に上手く乗り切れず、世界経済のポジションも大きく変わり、”先進国”ニッポンは、それまで開発途上国・新興国と位置づけていた国々にあっと言う間に抜かれてしまい、”課題先進国”を冠する、いわば停滞国になったのではないかと思えてなりません。幸せを手に入れるはずだった、大きな目標としての夢や希望は、詰まるところ、本当に幸せとして叶ったのでしょうか?現実的には、自殺大国ニッポンという悲惨な数字として表れています。失われた30年は経済面にとどまらず、多くの命も失い続けた30年でもあるわけです。

犬のような集団訓練を重ねてきたことで、”優秀な”日本人は平均点としての総合力は上がり、かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで評されるに至ったこともあるわけですが、残念ながら、”優秀な集団の総合力”で行きつけた先はそこで行き止まりだったのです。追いつけ追い越せの勢いそのままに、いざナンバーワンに踊り出たら、その先どうしたら良いのかわからない。あたらしい世界の発展をあけひらいていくような、自ら考え、行動する力を養ってこなかったことが露呈してしまったのではないでしょうか。犬の目(瞳)がまん丸なように、比較的右肩上がりや現状維持ができるような安定期(そもそもそれが幻想ですが…)と思える時代にはなにも考えなくてもやればやるだけ成果につながりやすかったがために、学歴と社会的成功(と言う名の収入や地位)の高い相関を信じたのは無理もない、そういう局面だったのだと思います。問題は、”当時の”実感を未だに当てはめ続けているから、成長段階が変わっている現在も学歴主義が根強く変わらないのだと感じます。過去の成功体験にしがみつく、あるいはゲームチェンジが起きていても、まだその過渡期として”賞味期限”がギリギリ切れていないと思える間は、文字通りそこで食っていくことを目指すという、非常に貧しい発想に陥っていると言っても過言ではないと思います。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とばかり、妄信的に組織に忠実にという思考を、まだ捨てずにこれからも進み続けるのでしょうか?赤信号の先は、いよいよ崖かもしれないのに。

それにしても、日本人は「平均」が好きですよね。実際、仕事において、ここは中央値を見るべきでは?と思う時でも、常に平均値を拠り所にする傾向を肌で感じていました。相対比較の中で均した、実存しない平均の人やモノ。そういう亡霊のようなものとの位置づけでしか自分を推し量れない、絶対的な価値が自分の中にない。それはそういう教育環境で育ったのなら、やむを得ないでしょう。でも、これからの時代、平均であることよりもその人らしい特性の表れとしての凹凸が際立っている方が良いのではないかと強く感じます。今後は、標準的であることや同質化は、むしろリスクが大きくなる、それどころかリスクでしかないかもしれないと。なぜなら、成熟化した市場において、他人と”同じ土俵”でその限られた果実を得ようとすると、「レッドオーシャン」の過当競争に陥ります。もし他人と”違う土俵”をつくり、自分だけの果実を手に入れられれば、「ブルーオーシャン」の、時として不戦勝に近い、戦わないで済む状態にさえ持ち込めるかもしれない。最近、社会全体がコスパ、タイパという嗜好性が強くなっているようですが、それこそ過当競争のコスパやタイパは極めて低いものにならざるを得ないのは確実です。少ない果実のためにそれだけの労力を、なにより苦しい辛いと思いながら投下するぐらいなら、その持てる力を自らの土俵づくりに注ぎ込めば、大きな果実を得られる可能性があります。それでも、小さい果実を得て、傷をなめ合う方が良いなら、同質で居続けた方が良いですね。その代わり、社会やだれかのせいにするのはやめた方が良いでしょう。「赤信号をみんなで渡る」同質化戦略を採るか採らないかは、自分自身の判断・決断でしかないですから。

大谷選手にしても、同質化から抜け出したからこそ、とてつもない成果を手に入れる形で実を結んだ。しかも、それがギャンブルや苦行ではない、その偉大なる挑戦自体が、自分の好きなことに向かって思うようにやりきってみるという夢や希望、幸福感に満ちたワクワクドキドキのあしたの連続だったに違いありません。

別に賭けをした方が良いと言いたいわけでも、焚きつけたいわけでもありません。人生を一か八かの大博打、やぶれかぶれの運任せ~なんて、短絡的な、楽観的な話では決してありません。逆に冷静に考えて欲しいのです。他人のつくった土俵で、決めれらたルールで、勝ち負けを決められる。その方がよほどギャンブルではないですか?しかも、ほぼ勝ち目のない。。。

自分らしい、自分なりの夢・希望・幸せに満ち足りる上で、自分の土俵をつくることはとても大事であり、他人の土俵で比べ合う刹那的な競争教育は、もういい加減、無理があるのではないでしょうか?悲しいかな、真に創造的で斬新な企業・サービスが日本からはなかなか生まれないと揶揄されるのも(残念ながら言い得ていると認めざるを得ないですが・・・)、ここに帰結すると思っています。
でも、学校や企業など評価する側が楽をするには、圧倒的に今のままでいる方が良いから、そのほとんどが本気で変える気なんてさらさらないのだろうと諦めに近い思いでいます。

土俵をどう評するか?

ご一読いただきまして、ありがとうございました

それではみなさま、よいあけがたを!