2025.11.18
解離
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本日もあけました!
昨日、だれもが社会で生きていく上で多少なりとも「多重人格」であると明記しましたが、改めて医学的見地を調べてみました。
※以下転載
▼心の障害(厚生労働省 e-ヘルスネット)
解離性同一性障害
多重人格 /一人の人間の中に全く別の性別、性格、記憶などをもつ複数の人格が現れる神経症。
解離性同一性障害とは、かつて多重人格症と呼ばれた神経症で、子供の時代に適応能力を遥かに超えた激しい苦痛や体験(児童虐待の場合が多い)による心的外傷(トラウマ)などによって一人の人間の中に全く別の人格(自我同一性)が複数存在するようになることをさします。
解離とは、記憶・知覚・意識といった通常は連続して持つべき精神機能が途切れている状態で、軽いものでは読書に耽っていて他人からの呼びかけに気付かないことなどが当てはまります。この解離が、非常に大きな苦痛に見舞われたときに起ることがあり、実際に痛みを感じなくなったり、苦痛を受けた記憶そのものが無くなったりすることがあります。これは、苦痛によって精神が壊れてしまわないように防御するために、痛みの知覚や記憶を自我から切り離すことを無意識に行っていると考えられています。
解離性同一性障害はこの解離が継続して起こることによると考えられています。
長い期間にわたり激しい苦痛を受けたり、何度も衝撃的な体験をしたりすると解離がその度に起こり、苦痛を引き受ける別の自我が形成されてしまい、その間の記憶や意識をその別の自我が引き受けて、もとの自我には引き継がれず、それぞれの自我が独立した記憶を持つようになることが発生の原因と考えられています。
他人から見ると、外見は同じ人であるのに、まったく連続しない別の人格がその時々で現れます。性格や口調、筆跡までもが異なりますので、性格の多面性とは別のものであることに注意する必要があります。
発生の原因や進行過程など研究途上のため、治療法が確立していないのが現状です。
ここで日常生活を思い浮かべてみてください。私たちは世渡りの術として、その時々の状況に応じて口調や態度を変えながら生きています。「TPO人格」と言えば、納得感もあるのではないでしょうか。フォーマルな場、カジュアルな場、親しいひと、好きなひと、嫌いなひと、仲間と敵…。
最もわかりやすいのは、言葉遣いです。日本語が顕著なのは、敬語の種類です。「丁寧語」「謙譲語」「尊敬語」があり、これらを上手く相手や場によって使い分けていますよね。その上、これらを発するトーンや、時には態度にまで出てしまうことも。だから普段だれかの傍にいて、突如見たことのない言動を目撃した際には、こんなひとだったっけと驚いたり意外に思ったりして「二面性のある人!」なんて思った経験もあると思いますが、その人自身(自分)という人格はあくまでひとつに集約されている状態です。決して「使い分け=演じ分け」している記憶や意識、知覚やアイデンティティが分断されたバラバラの人格が存在しているわけではありません。(まあ、本当に「二重人格」なひとも、実際いるにはいますが。。。)
それが度を越えてしまうと、ひとつに束ねられていたものが解離してしまう。上述の読書の例のように軽くて一時的なものは日常でも出現することはあり、たとえば大きな感情の起伏(喜怒哀楽や驚き、恐怖等)による思考の混乱・停止(パニック状態)になった時、その瞬間の記憶が一部抜け落ちたり、知覚の一部を感じなくなったりすることは、だれにでも起こり得ます。それが極限状態に陥って症状が深刻になると、日常生活に支障をきたす正真正銘の「多重人格(解離性障害)」になってしまうのです。
なにを申し上げたいかと言うと、だれもが常に多面性を持ち合わせており、使い分けで行き来をして「軽度な多重人格(TPO人格)」を運用しているのです。それは生きる上で必要な自己防衛でもあるわけですが、危ういのは片道切符のように”向こう側”へ行ったままになってしまう大人が多いということ。いつからか「親」や「偉いひと」「教えるひと」になって、自分自身の元来多面的な「こども」「ただのひと」「学ぶひと」を気づかないうちに分離させ置き去りにしてしまうのです。
そして幸か不幸か、またいつか気づく日もあるのでしょう。社会を生き抜く上で ‐自ら望んでか、だれかに強いられてか- 防衛策により本当の自分から大きく乖離してしまったことに。その時になって”あの頃に戻りたい”と後悔しても手遅れ・・・なんてことにならないよう、常に自身が「学び手」であることを自覚し続けることが大切だと思います。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
