2025.11.17
資格
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本日もあけました!
前回、社会経済における「作り手」「送り手」も「使い手」「受け手」であるように、人間だれしも「学び手」であることを述べました。
親になれば、こどもを育てる立場になる。兄姉になれば、妹弟に教える立場になる。上級生になれば、上長になれば・・・。それこそ直接的な先輩後輩や兄弟姉妹関係でなくても、時にただ年上というだけで小さなこどもでさえも「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」と言われてしまう。それぞれが「学び手」として依然”学びの途上”にあるにもかかわらず、世の中には「立場論」「役割論」が渦巻き、幅を利かせているのです。
面白いことに、これらに資格や免許は要らないですよね。教師になるには教員免許という資格が要ります。でも学校以上に、生まれながらに過ごし続ける家庭も”まなびそだち”の上で、非常に重要な場であるはずです。「外注」である学校には資格が必要だけれども、本質的・継続的に大切な家庭においては資格など存在せず、だれも親や年長者になるための体系化された研修など受けていない。あるのは、手探りの”本番の学び”であり、必死にその拠り所として、自分を -同じように無資格未経験で- 育ててくれた親・兄弟や配偶者の義理の親や家族、親戚、人生の中で出会った恩師や本に書いてあること、身の回りのママ友パパ友、塾や習い事の先生等々を頼りに、経験も手ほどきも受けたことのないステージへ突き進むことが当たり前になっています。きっとそのせいもあってか、学校などの「先生」や会社の「お偉いさん」のように多くの人の指導的立場に立つ方々のお子さんが、必ずしも素晴らしい家庭教育の元で立派に育っているとは限らないこともあるのです。
これこそまさに、色々な側面や役割を持つひとりの人間だからです。どんなに優れていると周りから尊敬されたり、崇められたりするほどの「スゴイ」人でも、家に帰れば、ひとりの親でしかない、こどもでしかない。子を持つ人なら、たとえば社長や先生である前に、ひとりの母であり父であり、ひとりの夫や妻、(自分の親が存命なら)ひとりの子であり、そもそも”ひとりの人間”である。
だけれども、社会で生きていく上で「個」は疎かになりがち(せざるを得ない)で、こどもができた瞬間から「親なんだからしっかりしなきゃ」とか、上司になった途端に「〇長としてみんなを統率しなければ」とか、変な「立場論」「役割論」で急激に”人格”が移り変わってしまう。自身も永遠の「学び手」であることに変わりないにもかかわらず。
それに、結婚してこどもができたからと言って順番は夫婦が先である以上、「夫婦=恋人」で変わらずあり続けることがベースにあって、そこに親としての役割が後から増えているだけのはずが、「夫婦=パパ・ママ」と急激に転換され、寂しいというか悲しいことに、その関係もなぜか分断や対立構造になることさえ生じています。
これは多分にキャパシティーの問題もあるのだと思います。ひとりの人間が人生を長く生きていくと、家庭のみならず社会で求められる役割がどんどん増え、「多重人格」が雪だるま式になって”埋もれてくる”人格も出てきてしまい、すべてのキャラクターをきちんと維持したり演じ分けたりするのが困難になってきます。ですから、自分の中の優先順位や求められる比重・圧力に応じてなにかを捨てていくことになり、自ら消したつもりでなくても「上書き」されてしまっているのではないでしょうか。
しかも、この役割は上下関係だけに留まりません。内と外でも充分に違っています。家の中にいる自分と外に出て学校や職場にいる自分。逆に、家の中で家族の前では素の自分で居られず、外にいる気の置けない友達や恋人の前でだけ自分らしく居られる場合も。素の自分ということ自体も突き詰めていくとわからない面さえ出てきますが、いずれにしても内と外や相手によって見せる自分が異なる点で、だれもが多少なりとも「多重人格」であるわけです。
でも怖いことに、演じている役がその時間の長さや自身の意識付け、求められる重圧等によって、いつの間にかそれが真の自分だと自身でも思い込んだりわからなくなったりする麻痺状態に陥ることもあるでしょう。その歪みや自己分裂が激しくなった時に、不幸な事態に見舞われてしまうことまであるのです。
よく「人の上に立つ資格がない」「親として失格だ」などと非難批判される言い回しがドラマでも現実でも耳にしたことがありますが、そこには思わぬ死角が生じる危うさがあるように感じます。
だれもが永遠の「学び手」であることを忘れてしまうことの怖さが…。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
