2025.11.14
WOW!
-96-
本日もあけました!
昨日、これからは「投合型」のまなびに向かっていくべきではないかと記しましたが、これも実社会で起きている現象に重なる流れだと感じています。
これまでは、経済活動において企業などの作る側を「生産者」と呼び、それを購入・利用する一般生活者を「消費者」と呼んできました。ですが、当たり前の話として、なにかを製造・生産・販売・発信する「作り手」「送り手」も、なにかを購入・利用・受信する「使い手」「受け手」の側面があるわけです。つまり生活の上では、だれもが両面の人格を持ち合わせており、メーカーの人は自社製品においては「生産者」かもしれないけれども、日常生活で使用している他社製品や、場合によっては自社製品も含め、買って使っている側の「利用者」でもあります。このことを広告会社では、ひとりの人間がいくつもの役割を持つ「生活者」として、まるごと全体で捉えるようにしています。(その広告会社やマスコミの人間自身、「送り手」であり「受け手」であります)そういう意味では、「教師」「先生」と「学生」「生徒」だって同じではないでしょうか?あらゆる人間は「学び手」であると。
「教師」「先生」と呼ばれる人は、その資格を得るために勉強をして教える立場にいるわけですが、いざ教える側になったらもう学ぶ必要はないかと言えば、そんなことはあり得ません。常にあたらしい情報を仕入れて学び続け、日々教えることを通して「学び手」から逆に教えられることだって大いにあります。それこそ職業にかかわらず、指導する立場になったことのある人なら、その多くが経験し実感もしているはずです。「学び手」の純粋な疑問や反応などから「教え手」は試行錯誤をしたり、時にハッと気づかされたりといった「学び手以上の大きな学び」を得させてもらっている「学び手」でもあるのです。
また、生きている以上、意識していようが無意識であろうが、なにかを経験する度に人間は学んでいるのですから、明確に教える側とか学ぶ側とかの立場でなくとも、日々「学び手」であることは間違いありません。(動物だって -その生き物によるレベルは異なるとしても- 親や仲間たちから教わるだけでなく、実際に天敵から逃れたり、獲物を狩ったりする経験も重ねながら、その命を生き抜くための術を少なからず学んでいます)
つまり、「作り手」と「使い手」以上に、「教え手」と「学び手」はその重なりが大きい点で、両側面どころか”表裏一体”だと言えるでしょう。
社会経済において、今では重心バランスが大きく移動し、「受け手」「使い手」とされてきた側が「送り手」「作り手」になってきた。企業側で言えば、これまでは自社の技術力を元に開発したプロダクトを世に送り出すという軸足で、上手くいかない場合に購買者・利用者からの反応・意見を事後調査で把握したり、上手くいかないリスクを低減するためにも事前調査も行ったりしていたものの、あくまで自社技術(のみならず”事情”も)ありきで、必ずしもユーザーファーストでなかったことは否めません。それが、今では一般生活者とされてきた”素人”から生まれた商品やコンテンツなどが爆発的に売れたり、発信された情報が世界中に拡散したりするほど人気・支持を得ることも珍しくない時代で、企業側はそれを取り込もうと追いかけるのに必死です。もはや”素人”の意見を参考にするだけでなく、アイデアも含めて商品開発からその販売・発信に至るまで一緒にタッグを組んで”投合”しようと躍起になっています。
この現象は、「モノ」ではない「情報」を流通させるだけのサービスにおいて一層顕著になるでしょう。ただでさえ「教え手」と「学び手」は表裏一体なのですから、これまでの情報優位性で「情報」を上流から下流に向かって受け渡す形で成り立っていたような教育は、立場逆転に留まらず、間違いなく消滅の憂き目に遭うでしょう。ではどうするべきか?
従来の対極的な立場の「先生」「生徒」や分断的な「科目」「学年」といった切れ目や分け目のある「教育」ではなく、すべてがきちんと繋がり巡る学びの”環(わ)”に、先生も親も大人も一緒に参加し、”こどもとともに創り・楽しみ・成長”していくべきだと感じています。
激変する世の中だからこそ「教え手」は「学び手以上の学び手」であるという本質に立ち返り、「学び手」とともに学んでいく”環学(わがく)”をススメたいと思います。「環(わ)を以って学びと為す」ことで、想像をはるかに超えるような「WOW!」なあたらしいあしたがあける、そんな時機を迎えている気がしています。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
