2025.10.27
伝心
-83-
本日もあけました!
先週、日本の憲政史上初となる女性の内閣総理大臣が誕生しました。連日の報道からは、日本のあたらしい時代を迎える歴史的転換期として、変革実現の期待が高まっているように感じられます。
その重責を担う立場になる、自民党総裁である新首相および日本維新の会の共同代表それぞれから申し合わせたかのように”ある偉人”の言葉が引用されました。それは、松下村塾で多くの志士を育て、塾生たちに受け継がれた“志”が明治維新の原動力となった、幕末の思想家であり教育者の吉田松陰です。
▼吉田松陰・文 略年譜(萩市HPより一部抜粋・引用)
・天保元年(1830)8月4日:藩士杉百合之助の次男として萩松本村に生まれる
・5歳:山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となる
・6歳:大助の急死により吉田家の家督を相続する
・9歳:家学教授見習として藩校明倫館に出勤する
・10歳:明倫館で初めて家学を教授する
・11歳:藩主毛利敬親の御前で「武教全書」を講義する
・13歳:叔父玉木文之進が自宅に創始した松下村塾に兄梅太郎らと学ぶ
・19歳:家学後見がすべて解かれ、独立の師範となる
・24歳:嘉永6年(1853)1月26日 諸国遊歴に出発(近畿遊歴後、5月24日、江戸着)/6月4日 黒船来航を聞き浦賀へ急行、それを目撃する/9月 ロシア行きを図って長崎へ行く(10月 失敗)
・25歳:安政元年(1854)3月27日 金子重之助とともに下田で米艦乗り込みに失敗/10月24日 萩に到着し、野山獄へ投じられる
・26歳:安政2年(1855)12月15日 出獄して生家で蟄居の身となる
・27歳:安政3年(1856)3月 杉家の幽囚室で教授を開始/12月 来萩した梅田雲浜と会う
・29歳:安政5年(1858)2月 塾生増加のため塾舎増築を企画(3月11日 完成)/7月20日 家学教授の公許を得る/11月6日 塾生17名と血盟、幕府老中の間部詮勝要撃を画策/12月26日 野山獄へ再び投じられる
・30歳:安政6年(1859)5月25日 江戸へ護送(6月24日江戸着、7月9日下獄)/10月27日 罪状申し渡し、斬刑(10月29 塾生、小塚原に葬る)
享年30歳という、あまりにも短い生涯でしたが、驚くほど若くして頭角を現し活躍した逸材だったことがわかります。そして度重なる失敗における心持ちが、これまた常人に非ざるといった感じです。
「計愈々(いよいよ)違(たが)ひて志愈々堅し。天の我れを試むる、我れ亦(また)何をか憂へん。」
計画がなかなか思惑通りに進まなくとも、むしろ志を一層堅くし、天からの試練として、なにも憂うことはないと、その心は決して揺らいだり、折れたりすることはなく、獄中においてもさらに猛々しさを増します。
▼二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)
・松陰の墓碑には「松陰二十一回猛士墓」と刻まれている
・曰く、野山獄中で夢に出てきた神様からの進言により自分のことを二十一回猛士と呼ぶようになった
・「吉田」は、吉が十一と小さい口、田は十と大きい口で、数字を足すと(11+10)二十一、口と口で回となり、合わせて二十一回となる
・杉(十八彡)の字も数字を足すと(10+8+3)二十一
・さらに「猛士」についても、自身の通称「寅次郎」(幼名は寅之助)から、勇猛な虎になぞらえ、自分は「二十一回」の「猛」を行う「士」である「二十一回猛士」とした
出ました! ねこ科です。笑
個人的推察として、獄中においても講義したという「孟子」の響きにあやかって「猛子」としたのではないかとの想像も勝手に重ねていますが、そんな次元ではない衝撃の偶然に気づきました。
上述の通り、本日10月27日は松陰忌にあたるのですが、その命日は西暦だと1859年11月21日なのです。奇しくも「二十一」ではありませんか⁈ しかも、11を漢字にすると「士」。さらに、庚寅の年に生まれ、甲寅の年に投獄されたなんて、正真正銘の虎です。
志高き偉人の変革の心は、時空を超えて今なお多くの人々に影響を与え続ける”維新伝心”だと畏れ入ります。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
