2025.07.16

差の和

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今日もあけました!

ネコ学 -あなたの猫と最高のコミュニケーションをとる方法- 築地書館|クレア・ベサント[著] 三木直子[訳]』によると、「猫ほど個体差が激しい動物はいない」らしいのです。実際、感覚的にものすごく納得感があります。群れない、自分を持っているイメージの猫は、「自分は自分」だから、猫の数だけ個性がはっきりある気がします。

本来、「差」が”強さ”になる。”三人寄れば文殊の知恵”という諺は、似た者同士の3人を指していないですよね?ものの見方や考え方、行動の仕方に至るまで、それぞれに違いがあるから、一人でやるよりも、似た者同士の集まりでやるよりも、はるかに素晴らしい成果を生み出せる。社会における多様性の重要性や必要性が声高に謳われ、機運が高まっているのも、それがあるからでしょう。ただ、世論としての多様性は、ともするとマイノリティ比重の性別、年齢、人種や国籍・文化、身体的特徴、性的指向、宗教といった側面に焦点を当てて取り上げられる傾向が強い印象ですが、本質的には”人間ひとりひとり”のあらゆる差のことです。

経済産業省のHPにも

ダイバーシティ経営の定義
 経済産業省では、ダイバーシティ経営を「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義しています。
 「多様な人材」とは、性別、年齢、人種や国籍、障がいの有無、性的指向、宗教・信条、価値観などの多様性だけでなく、キャリアや経験、働き方などの多様性も含みます。「能力」には、多様な人材それぞれの持つ潜在的な能力や特性なども含みます。「イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」とは、組織内の個々の人材がその特性を活かし、生き生きと働くことのできる環境を整えることによって、自由な発想が生まれ、生産性を向上し、自社の競争力強化につながる、といった一連の流れを生み出しうる経営のことです。

とあります。

人それぞれに得意、不得意がある。よく「長所は短所、短所は長所」なんて言いますが、決して気休めや慰めではなく、真実であると思います。「適材適所」とはまさにそういうことから生まれた考えのはずですよね。でも、先生や親、経営者・上司は、いつしか自分にとって、組織にとって「都合の良い」「使い勝手の良い」”優秀な人間”を重宝するようになり、「適材適所」を考えた”人を活かす”ということをしなくなる。怠慢そのものです。数多くいる児童生徒、部下をひとりひとり見極めていくのは確かに大変で面倒ですからね。でも、そういった本質を軽んじる行為によって、上位者の人間の目はどんどん見極める力を失い、偏った歪んだ運営、運用がその集団における”常識”として公然とまかり通り、結果として脆弱な集団に陥り、成長や発展が鈍化し、大きな損失につながっていく・・・けれども、幸か不幸かそんなことさえ気づかないのです。

金融商品の投資の世界では、よく「ポートフォリオ」なんて言いますよね。1つの銘柄へ1点張りしたり、同じような商品群に偏って投資したりしていると、良い時は良いけれども、悪い時は目も当てられなくなる総崩れになる恐れがある。複数銘柄に分散投資しておけば、その凸凹がリスクヘッジとなり、違いが全体として補完し合う、環境変化にも強くいられる集合体を組成できるわけです。

「捨てる神あれば拾う神あり」は、とても良いだと思います。「捨てる神」は簡単に言えば、見る目がない上位者のことですね。そういえば、私の嫌いな言葉で、自身では使わない表現があります。それは、「使えない」という言い方。人に対して、「あいつは使えない」と切り捨てる、立場的に上位者、役職者の人間に多く見られる言い回しです。なぜ私がそういう言い方をしないかと言えば、「使えない」のは、その上位者自身のことを指している、つまり「ひとを活かす使い方ができない、ひとを上手く使えない」と自分自身のことを言っているに過ぎないからです。偉そうに(実際偉いと勘違いして)断言しているその人自身が、自分の力量の低さを指してしまっているという皮肉な状態であり、それに全く気づいていないなんて、本当に残念至極です。
「拾う神」は、その人の活かし方を見出せる人。少なくとも活かそうと努める人。でも、今の時代、なかなかいない、”絶滅危惧種”になってしまったのではないかと心配しています。ちゃんと人のことを見る力がある人は、まさに「神」的というほどにまで、希少になってしまっていると体感しています。結局は、その「上位者」もさらにその「上位者」や「権力者」に評価される立場だから。人が人を評価し出すと、負のサイクルになるという笑えない現象を引き起こしてしまうとすれば、評価は一体なんのためにあるのでしょう。

人が開花する時期は、人それぞれ。能力だけでなく、その力の伸びる、発揮できる時機が違うことも、集団としての強さにつながる。それを同時期に、決められた尺度で推し測り、無理やり開花させようとして、思うようにならなければ切り捨てるようでは、開花するどころか、つぼみは痛み、傷つき、最悪の場合には、もう二度と花開く力を失ってしまうことになりかねません。そんな集団は、とても咲き誇ることなんてできないでしょう。

差を差のままにしておくことが、結果として総和が大きくなり、全体が上がっていく。
差をなくす標準化は、下がっていくのみ。
さあ、どうしましょう?

ご一読いただきまして、ありがとうございました

それではみなさま、よいあけがたを!