2025.07.15

まんま

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今日もあけました!

土俵をつくるって言ったって、どうやって?そんなのは、能力の高い一部の人だけができることでしょう?つくりたくてもつくれない人間は、他人と同じ土俵に立つしかないじゃないか。なんて思われる方もいるでしょう。でも、時代の流れとして、”それぞれの土俵”という素地が生まれつつあることに気づきませんか?流行り言葉のように言われている”多様性”というやつです。

当たり前ですが、多様であることは、一様ではないということ。これまでの日本の教育は、見事なまでに画一的でした。多様であることは、あまり許容されず、歓迎もされてこなかったのです。工場と同じ、金太郎飴のように全体として高品質でムラのない、どこをどう切っても一律になることを目指した「ヒトづくり」を行ってきたのです。このことの本質はなにか?を問うた時に浮かぶ答えは、恐ろしいことに、「替えがきく」以外のなにものでもないのではないか、です。だれかが辞めていなくなっても、突然倒れて動けなくなっても、替えがいるから止まることなく進み続けられる。確かに”組織”としてはリスクヘッジができて、まさに都合良く、効率良く回していける「素晴らしいシステム」でしょう。そんな中、個を押し殺して、組織のために忠実に取り組んできた真面目な人ほど、自身が”替えさせられた”時に失望や絶望を抱く、あるいは金太郎飴になれない、なりたくないひとたちも感じる、とてつもない生きづらさ。この”生きづらい世の中”ということを昨今よく耳にするのは、これまでの弊害が浮き彫りになってきている表れなのではないかと思います。
だれかのために役立つ「人材」として育てられるなんて、完全に材料扱いの言い方ですよね。実際問題、会社・組織からすれば、経営に必要な材料「ヒト・モノ・カネ」のうちのひとつでしかない、歯車やコマと言われる通り、根本的な意識として染着いたものが実際あるのでしょう。完璧とも言える他律の環境です。

そもそも自分の土俵をつくるということは、能力がどうこうという以前に、自律的であることが前提となるでしょう。他律的な人生を甘んじて受け入れるなら、他人の土俵で戦い続けることになります。でも、小学生の時によく言われませんでしたか?先生からも親からも「ひと(他人)はひと(他人)、自分は自分」って。これは完全なる自律であることを求めているわけですが、散々、他律的教育を施しておきながら、その真逆を平気で言うパターンですね。こういう矛盾の、さらに象徴的な言い方は、「みんな一緒に」とか「みんなのお手本」とか偶像としての没個性を強く求めておきながら、最近の若者は「個性がない」なんて、イヤイヤイヤ…どの口が言うねん!

でも、いよいよ世界的にも「包摂性(インクルージョン)」や「多様性(ダイバーシティ)」と言われる社会になってきた今、自律であることが許されるというか、自律的でいられる環境になってきたのです。自律と言われると「私はそんなに自分を持っているわけではないし・・・」なんて尻込みする人もいそうですが、簡単に言えば、自然体で良いということに近いかもしれません。他律のイメージ像としての「無理をする犬」に対して、その反対の存在として挙げるならば、そう”猫”です。猫のイメージは、気まぐれ、自由気まま、自分勝手みたいなイメージが浮かびやすいですが、なんだかあんまり良い言い方に聞こえないですよね。でも、冷静に客観的に捉えると、自分に忠実、まさに「ひとはひと。自分は自分」を地で行く自然な生き方と言えます。リードを付けられてご主人様と行動を共にしなければならないなんて服従はなく、むしろ逆に、いとも簡単にご主人様を手玉に取ってしまうような不思議な魅力の持ち主です。独立性が高いものの、孤高や孤独とも違う、適度な距離感やバランスを持つ、神秘的な生き物ですね。

猫が猫である所以は、そのまんまでいいという佇まい。
あなたもあなたのまんまでいい、と示してくれる存在。

ご一読いただきまして、ありがとうございました

それではみなさま、よいあけがたを!