2025.07.08

見えざる正体

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今日もあけました!織姫と彦星の一年後の再会に向けた初日ですね。涙

みなさんは、夢や希望を持っていますか?

今の私にはあります。”今の”というのは、そう、これまで半世紀近く生きてきた中で、特に夢とか希望とかいうほどのものは持っていませんでした。と聞くと、なんて寂しい可哀想なヤツと思われるのかもしれませんが、その時々で明確にやり遂げると心に決めたことや所謂目標はあり、都度それらを自分なりに実現し、あるいは必ずしもその時点では叶わなかったことでも、常に成長につなげ、重ねてこられたと思っています。ですので、「あの時は良かったなぁ」なんて感慨に浸ったり、ましてや「あの頃に戻りたい」と思ったりしたことは、ただの一度もありません。別に強がっているわけでも、失敗のない成功だけ積み上げてきた思い通りの人生なんてことは一切なく、今を確かに”生きている”だけなんです。まあ、多分に性格的なものでもあると思うのですが、「挫折」というものはなく、ある意味幸せなのかもしれないです。ただ単純に挫折を挫折のまま終わらせることができない性分だから、結果的に挫折感がないというだけのことなんだと思っていますが。

だから、みんな夢や希望を持った方が良い!なんて全然思わないですし、そんなことを言う気は微塵もありません。夢や希望を持てている人は、それはそれで幸せなことなんだと思いますし、否定するつもりもなければ、逆に凄いとも思いません。素晴らしいことではあるかもしれませんが、決して「そうあるべき」とは思いません。目の前のことに一生懸命に少しずつ進んでいった歩みが、思わぬところまで運んでくれることだってあると思いますし、自分はどちらかというと、そっち系かと。笑

実際、世界で名を刻んだようなアスリートでも、事業で成功した方でも、そういうタイプは少なからずいらっしゃると思います逆説的に思うのは、むしろ思い通りの人生なんて、実は大したことない、高が知れていると。一見すごいように感じるのだと思いますが、思ってもみなかったようになることが面白く、そこにダイナミズムがあるのであって、思い通りで勝ち組だ!と勝ち誇っていることは、もしかすると大失敗かもしれませんよと。自分の想像をはるかに超えた、まったく想像すらできなかった道に、とてつもない果実が成ったかもしれない、と。

この際、正直言ってしまえば、会社における「キャリア形成」なんて性に合わないし、大嫌いでした。ただのアピール合戦で、評価のために会社に言わされているだけで、面談のために心にも思っていないことまで盛らなければならない誘導尋問的な感じだったり、それを上から目線で指導という名のものとに面談するどうしようもない上司がいたりで、はっきり言って化かし合い(馬鹿仕合い?)の茶番でしかない、まさに学校教育と同じだと思っていました。人が人を評価するほど危ういことはないと思っています。それどころか間違いだらけとさえ言えるでしょう。評価する人の目が曇っていたり、凝り固まった思考回路で本質が見えなくなっている人に評価されるほど恐ろしいことはないでしょう。少なくとも、目の前のことに自ら意味を見出し、人のせいにせず、文句も言わず、置かれた環境で最大限できることを着実に積み重ねて乗り越えていった先に道がひらけるパターンの人には全く馴染まないと。でも、学校の先生や親や、組織の上長は「自分たちが聞きたいことを聞かせてくれる」こどもや部下が可愛い、完全なる裸の王様であり、その恥業愚行に気づいていない幸せな人たちとでも言うべきか。。。もちろん、そのやり方が馴染むというか、嬉々として地で行くような人たちもいるにはいるでしょう。でも、それが果たして本心なのか、ちゃんと自身の奥深くまで突きつけた時に、知らず知らずのうちに自分を偽っていたり、そう言い聞かせて思い込んでいるだけだったり、ただそのゲームに乗っかっているだけだということに気づく人も相応にいると思います。きっと、そうでもしないと生きていけないような世の中ということですね。

なので、こどもたちが所謂、夢や希望を”持てる”ように、なんて言いません。ただ、私が思うのは、”あしたが待ち遠しくて仕方ない”という気持ちになれることが、ひとつの幸せな状態であることは間違いないだろうということです。鬱屈した空気が今の日本を覆いつくし、上辺や嘘にまみれ、本当のことを言ってくれるおとながあまりにも少ない。その場しのぎで誤魔化し誤魔化し取り繕うのは、おとなとしてやるべきではない。真に必要なのは、”ドキドキ・ワクワクのあした”を体現するおとなの姿だと心から思うのです。”待ち遠しくて仕方ない、ドキドキ・ワクワクのあした”こそが夢や希望ではないでしょうか?大そうなことをうそぶくように掲げて、それ自体を人と比べて凄いだろうとこれ見よがしにする必要なんてなく、有言実行だろうが不言実行だろうが、それぞれが心に誓った道を本気で信じた道を進めばいいだけのことだと。夢や希望にまで相対比較を持ち出すなんて、無意味どころか、もうつける薬がないですね。夢や希望たり得るのは、自分自身の内にしか存在し得ない「絶対価値」だけのはずだから。

今、私には夢や希望がある。”あしたが楽しみ”だから。そしてそんな姿を通じて、我が子になにか伝わるようなことがあれば嬉しい(けど伝わらなくても良い)し、そういうおとながたくさん増えて、親子関係にかかわらず、こどもたちが世の中にいる素敵なおとなたちを見聞きし、交流し、自然とそうなりたいと思えること。それがおとなができる”最高の環境づくり”だと確信を持って言います。

文字通りの明日というあしたもあれば、何年も先の将来というあしたもありますね。特にその長い時間軸になったものが、本当の意味で夢や希望と呼ばれるものになるんだろうと。持とうと思って持つものではなく、気づけば自然と自分の中に確かに”ある”もの。織姫と彦星は一年後のあしたが楽しみで仕方ないから、それまでの日々を”生きて”いけるのでしょうね。だれかに言わされるのではない、評価をされるのでもない、心の奥底から湧き出る”待ち遠しくて仕方ないあした”を大切に抱きながら。

ご一読いただきまして、ありがとうございました。

それではみなさま、よいあけがたを!