2025.07.07
希望の岸
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七夕もあけました!織姫と彦星の待ちに待った再会の一日ですね。一年はあっという間にすぎていきますが、この一日のために残りの364日を過ごす時間のどれだけ長いことか、ようやく再会の叶った儚い一日のなんと短いことだろうと思いを馳せてみると、一日一日をかみしめて生きていくことの大切さに気づき、豊かな時間と世界が広がる気がします。あるいは、絶対的な希望を抱いていられれば、それに向かってひたむきに生きることができるんだ、ということでもありますね。
なんてロマンチックな話をしたかったわけではありませんが、前回「うち(家・内)」という“環境”の話をしました。そして、その“環境”をつくることこそが、おとなたちができるほぼすべてではないかという想いについて、引き続き綴ってまいります。
これまでひとつの象徴的な事実として、学校教育現場におけるデジタル化の浸透・定着が社会と乖離している点を挙げてきましたが、それもひとつの大きな“環境”視点としてあります。こどもを取り巻く環境として、”デジタルネイティブ”と称される通り、この世に誕生した時からデジタル環境に身を置き育つ中で、なぜ学校は「アナログvs.デジタル」論争をしているのか、こどもたちにとっては不可解極まりないことでしょう。先人である“大人達”がデジタル社会をつくり、その進化を加速しているにもかかわらず、未だネガティブなマイナス側面ばかり強調する二項対立の“大人達”の議論の不毛さをこどもたちは冷めた目で見ているかもしれません(わたしがこどもだったら、確実にそう思います)。それぞれの良さを取り入れる”二項混成”という進め方をなぜできないのでしょう?それは脈々と続く「減点法」の教育が成しえる思考回路なのかもしれないと思うと、そういう思考環境に晒されているこどもたちの成長は決して良い状態とは言えないでしょう。こどもの”横に並んであたらしいあしたへ目を向け”ようとしない、むしろ目の前に立ちはだかり、逆方向の景色である過去や現在地に拘るのみならず、こどもにその景色を強要しようとする暴挙にさえ映ります。こどもを取り巻く環境は、かれらにとっては生まれた時から選択の余地もなく存在する”与件”である以上、それは“大人の責任”であることは紛れもない事実です。したがって、おとなはその責任に立って考えを巡らせ、行動するべきであると思うのです。
デジタルの弊害をくどくど説く前に、まず自分がこどもたちにとっての見本になっているのか?こどものリテラシー教育云々と言う前に、自身がリテラシーの高い言動をとれているのか?おとなができていないことをこどもに求めるのは矛盾とか理不尽とか言う以前に、単なる嘘つきにしか見えないでしょう。だから”大人”は信用されない。本当のことを言わないから。”大人”になんかなりたくないと思われる。そんな人間にはなりたくない、との思いが純粋な心には浮かんでしまうでしょう。
これまでいくつか取り上げてきた、学校教育周りの事実はごく一部に過ぎません。こどもたちを取り巻く”劣悪な”環境は枚挙に暇がないほどです。「貧困」「ヤングケアラー(日常的な家族の世話等)」といった経済的、家庭的に厳しい現状に見舞われていることもありますが、なにより信じがたいのは、教職員や親たちによって過去最悪レベルで引き起こされている「虐待(身体的・性的・ネグレクト・心理的)/体罰・不適切指導、性犯罪・性暴⼒等」やいじめに教師も加担するといった耳を疑うような事案まで。自殺大国ニッポンという不名誉な実態は、小中高生の自殺者数の過去最多という悲劇的な形で現れています。少なくとも「保護者」や「先生」と呼ばれる立場のおとなとして許されない言動は、”リテラシーのない大人”たちであることの証左として、こどもという写し鏡にはっきりと映し出されてしまっているのではないでしょうか。
こどもたちはこんな時代に夢や希望など抱けるはずもないのではないか?、残念ながらそう思えてなりません。いつ向こう岸に希望の見える晴れやかな日が訪れるのか。。。
ご一読いただきまして、ありがとうございました。
それではみなさま、よいあけがたを!