2025.06.24

自律と他律

-4-

今日もあけました!

前回、こどもたち本人が『自分で決めることができない』ことが、“不登校”という状況を生むひとつの要因になっているのではないか、また一律に“不登校”と片づける側が、なにか大事なことを見落としているのではないかと思う、と書きました。

正直なところ、私自身、昭和の人間で、学校での部活や会社での社会人生活でも(いずれも“ザ・体育会系”!)理不尽なことや今で言うパワハラ的なことは散々経験し、その中で自分なりに受け止め考えながら、成長につなげていったことは多々あります。ですが、それを美談にする、正当化するのは違うと思っています。ともすると「時代が変わった」という言い方を耳にしますが、少なくとも私の記憶では、当時好き好んでそういう環境を嬉々として受け入れていたわけではない—やりたいことを続けるためには我慢してやり過ごすことも必要だった―ですし、実際、上下世代とも不満を抱えながらも耐え忍んでいた面はそれなりにありました。まさに精神論的にそう言い聞かせながら成長へつなげていくしかなかっただけのことです。でも、なぜそれが脈々と続いてきたのかと考えた時、人間心理として自分が受けたことを下の世代にも受けさせないと、自分が損した気分になるからだろうと私は捉えています。簡単に言うと、下級生の時に受けたことを上級生になった時にやらないとなると、自分はやられただけで終わりになってしまう、やられ損と感じるから。

私自身は、そういう負の継承が嫌で、体育会の部活でも自分たちが最上級生になった際に、いわゆる理不尽で本質的でないと思われる慣習は自分の世代で絶つように試みました。この辺の議論は、前回も触れたような個々人の性格等によるものもあるため、強制的に厳しい世界で鍛えられる方が良い人にとっては、また違った感覚を持つことも当然あるでしょう。

それでも、分かりやすい例をあげるなら、スポーツにおける指導の在り方は非常に大きな変化を遂げています。高校野球など、昔は絶対的存在の名監督による有無を言わせぬ強烈な命令型指導が主流だったのが、今では監督と対等に話し合い、主体的に考えて取り組むような、信じて任せる、見守り型指導が現れてきています(坊主か長髪かなんて髪型も!)。プロの世界でも様々な競技において、管理型から自律型への潮流が生まれています。(本来、自律的でなければ真にプロフェッショナルとは言えないのでは?なんて突っ込みたくもなりますが…)

このような観点で照らし合わせた時、旧態依然の他律的な教育スタイルに合わないことが、”不登校”という現象につながっている側面が少なからず存在すると思うのです。甘えだの、逃げだのという精神論で片づけるのではなく、なぜこれほどまでに不登校生が激増しているのか、その本質を見つめないことには、それこそこどもたちの抱えているなにか大きな問題・課題を大人たちが見過ごすことになってしまいかねないと危惧しています。

文部科学省の調査(令和6年10月31日公表)によると、小・中学校における長期欠席者数は493,440人(前年度460,648人)。うち小・中学校における不登校児童生徒数は346,482人(前年度299,048人)で11年連続増加、過去最多の一途を辿っています。

これだけの数が存在する以上、こども個人の資質で片づけることは決してできないと思います。総務省によると、2025年4月1日現在におけるこどもの数(15歳未満人口)は、前年に比べ35万人少ない1366万人で、1982年から44年連続減少の過去最少にもかかわらず、不登校生の数は年々増えている、これはさすがに社会システムとして機能しなくなってきているからにほかならないでしょう。まるで、高度経済成長期に整備された水道管路が法定耐用年数の40年を超え、全国各地で問題を引き起こしはじめているように、その倍に相当する80年近くも前に体系化された義務教育は、もはや社会の変化にきちんと対応できていないのではないでしょうか?

私たちは、2020年のコロナ禍による社会の大きな転換を経験しましたが、結局、その後どうなったでしょう?次回、その辺りから続けたいと思います。

ご一読いただきまして、ありがとうございました。

それではみなさま、よいあけがたを!