2026.04.07

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本日もあけました!
昨日に続き、『悩めるこどものための特別開放場「ねこだまSpecial Open Space」』に関連する話です。

▼厚生労働省:令和8年2月27日(金)のプレスリリースより抜粋・引用
・毎年3月は「自殺対策強化月間」
・関係府省庁等と連携し、さまざまな取組を実施
・昨年の自殺者数(暫定値)は、総数が19,097人と令和6年の確定値と比べ1,223人減少し、このまま人数が確定した場合、統計開始(1978(昭和53)年)以降で初めて2万人を下回り、最少の数値
・一方、小中高生の自殺者数は532人と令和6年の確定値と比べ3人増加となり、このまま人数が確定した場合、統計のある1980(昭和55)年以降で、最多の数値となり深刻な状況
・自殺対策強化月間では、電話やSNSによる相談支援体制の拡充や、主に中高年層に向けて、ポスターや動画等による相談の呼びかけなど、集中的な啓発活動を実施
・引き続き、誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現に向け、自殺対策を推進

ふと感じたことがあります。「防止」というのは、命の悲劇が起きる前に防ぎ止めることを意味していますが、実際にそこまで追い込まれている当事者にとっては「防衛」としての行為なのではないか。生きる希望を失う「絶望」という言葉に隠れて見えにくくなってしまっているかもしれない、筆舌に尽くしがたい苦しみ、悲しみ、痛みといった深い傷を負っていて、もうこれ以上は耐えられない限界を迎え、その苦しみから逃れ解放するための”自己防衛”なのではないか。だとすると、「防止」というのがなんとも皮肉に聞こえてきます。一体なにを防ぐというのか。命を絶つことを防いだとて、本質的な痛みから防いであげることができなければ、結局は堪え難きを耐え、忍び難きを忍べということになってしまい、防止した方は一安心でも、当の本人には地獄が続く状況になってしまうでしょう。
だから、その原因そのものを取り除かない限り、時間稼ぎをしたに過ぎない状況で、遅かれ早かれの事態は一向に変わらないわけです。もしその原因が「学校」にあるのであれば、やはりそれを取り除かないことには成立しないはずです。学校に行くのが、学校で過ごすのが死ぬほど辛いのであれば、躊躇なく「行かなくて良い」の一択ではないかと。
世の中は基本トレードオフだと思います。なにかを得ているという状況は、なにかを失っている状態。なにかを失うことは、なにかを得ること。命を失うことで安らぎを得ようとする「防衛」行為に対して、「学校に行く」ことを失うことで命を得ることができるのであれば、当人にとっての「防衛」は成立することになるのですから、単に事象に対する「防止」に力を入れるのではなく、どうしたら「防衛」を違う形で実現できるかを一緒に考え、シンプルに取り除く手助けをしてあげることに尽きるのではないでしょうか。

だれのためになにを防ぐのか。社会や企業、学校や先生、家庭や親のために防ぐのではない。「本人」のためになにから防いであげられるのか。その目線が合わない限り、肝心要の防いだ先の「衛る」ことにはつながらないでしょう。

ご一読いただきまして、ありがとうございました

「これからのこどもたちと社会のあしたが輝く」あけがたをあけたい