2026.03.30
不通
-182-
本日もあけました!
昨日、友人からあるイベントの案内をもらい、参加してきたのですが、そのテーマは「普通とはなにか」という主旨でした。
イベントは、登壇者のトークを中心に会場の参加者(男性はなんと私一人!!)からも意見や悩み等を発してもらいながら交流するスタイルにて、そこまでテーマに縛られず、ご自身の体験談などを元に様々な視点を交えて展開していきました。
その内容については、多分にプライベートなお話も多く出ていましたので具体には触れませんが、私自身、イベント参加前から常日頃思っていたことも含めて、改めて感じたのは以下のようなことでした。
▼普通とは
・「ただの概念」・・・「平均」(平均的な人間というのは実在しない)と似たようなもので、具体的に存在しない亡霊のような観念
・「主語による」・・・だれが言っている、だれにとっての普通なのか。私とあなたの普通も完全一致は絶対あり得ないし、親と子、先生と生徒、先輩と後輩、妻と夫、上司と部下、企業同士(受発注関係、異業界)や国同士(先進国と開発途上国、地勢や宗教)等々、立場や環境によって大きく異なり、真逆なことさえある。個人単位でも、家庭や地域・団体などの組織単位でも、様々なレベルで違いがある。
・「変わるもの」・・・時代や場所によって違うという以前に、そもそも主語の主体者自身の考えも変わりゆくものであり、絶対不変のものは存在しない。たとえば、自分が生まれて以降、幼少期から大人となり、生涯を終える時まで、一生を通じて考え方がまったく変わらないこと自体、まずあり得ない。
ざっくり挙げるとこんな感覚を持っていますが、もし「普通」に一切疑問を持たないとか、絶対的に信じているとかいう人がいる場合、それは思考停止か不感症に陥っているのではないでしょうか。特に”みんな”と言う時は非常に危険で、上記の通り主語不在の亡霊のような偶像に師事している状態のため、洗脳・麻痺に近いでしょう。でも、”みんな”と言うのは、本当にそう思っているという以上に、免罪符のように使っているケースもあるのだと思います。他人を説得するために、自分の主観では押し通せないため、あたかも客観的な考えであるかのように”みんな”を持ち出す。そして、言われた側も”みんな”に弱く、屈してしまいがちなのかもしれません。
では、なぜ偶像にもかかわらず、”みんな”という名の「世の中」「社会」をはじめとした外圧でもって押さえつけることが、これほどまでに有効で可能だったのか。それはズバリ「一律で他律的な教育」の産物(弊害)だと思うのです。
多様性が叫ばれる時代に、従来通り一律で抑圧することは難しくなり、少しずつではあっても「普通」がどうこうなんて悩む必要がなくなりつつある時に、まだまだその亡霊に悩まされているとすれば、偶像が居なくなった途端に拠り所を失う状態になってしまっている恐れがあります。これまで他律的に育てられることに慣れてきてしまった体質なのに、いきなり自分主語の普通で良いと言われても、ついつい周りを気にしてしまい、未だに「正解」という存在しないものを求め続ける己の心があるのではないでしょうか。
こんな時、「ねこ」を見てみると良いと思います。「ねこ」に普通なんて見当たらない感じがしますね。極めて自律的に自分に忠実に今を生きている。「普通」なんて持ち出したところで、「ねこ」にはまったく不通です。
自分の魂の声にちゃんと向き合い、逃げたり隠したりせず、周りに押し付けたり求めたりもせず、たとえ外から強いられようとも、どこ吹く風と「ねこだま(ねこだましい)」な生き方が良いでしょう。
悩んだら、とにかく「ねこ」にまなぶと、悩んでいるのが馬鹿らしくなること請け合いです。
ご一読いただきまして、ありがとうございました
それではみなさま、よいあけがたを!
